
15年ほど前のことですが、中学入試の国語の読解問題で圧倒的に多かったのが重松清の作品です。中でも「さかあがりの神様」は、いくつもの中学校の入試問題になっていました。初めて自力でさかあがりができた場面の描写が出題箇所になることが多かったように思います。・・・
主人公の真一は赤ん坊のころに父親を亡くして、父親の記憶もなく育ちました。
母親との暮らしに不満はありませんが、公園の鉄棒で一人だけでさかあがりの練習をしているときは、ちょっと切ない気持ちになってしまいます。
お父さんがいさえすれば、さかあがりが成功するのではないか・・真一はどこかで父親という存在を望んでいます。
そこに突然現れた男「さかあがりの神様」が、少し怖そうだけど、お尻にそっと手を添え、さかあがりを教えてくれたことで真一は、さかあがりができるようになります。
嬉しくなって何度もさかあがりを繰り返した真一が、ふと気がつくと「さかあがりの神様」の姿は消えていました。
出題文の多くはそこまでです。
物語はさらに進んで、そのさかあがりを経験した自分が、今ぎこちないながらも娘にさかあがりを教えています。
実は、語り手は中年になったパパ真一でした。
その真一が娘に公園でさかあがりを教えるというのがこの物語の骨格です。
そして、今度は自分がさかあがりの神様になるというラストがこの作品の真骨頂です。
子どもを補助する
親の手助け
「成功の喜び、感動」
その感動を受け継いでいきたいと願う
全てが盛り込まれています。
人は、育ててほしかったように子どもを育て、子どもは子どもで、手助けを受けた経験を必ず感謝するということです。