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振り返り ‐根の深い木 66 ‐

私が社会人になる数年前からついこの間まで、日本のビジネス社会は、「滅私奉公」的な猛烈社員であることが、暗黙に求められていました。大多数の普通の人が、猛烈であることを是として、家庭や自身の時間を犠牲にしてでも頑張ってきました。やがて教育産業にも「気合い」の導入は広まり、「元気がよい」「笑顔がよい」「大きな声であいさつしている」などの言動が賞賛されるようになりました。販社では特訓と称し、芝居掛かった気合いを演じてみせるトレーナーに共鳴した中堅社員が「自分はまだまだ甘かった」と改心を熱く語りセミナーの受講を勧めたりしていました。少し踏み込んで考えれば疑問を感じることがたくさんありましたが、能力もやる気もある人は業績魂こそが自分を成長させてくれていると信じて頑張りました。精神論から入ると、どんどんロジカルに考えることが遠のきます。相手の役に立つことに集中した方が、早く良い結果が出ることも多かったはずですが、ハウツー本の「お客に拒絶されてからこそ、初めてセールスが始まる」のような話を真に受けていました。

さて、最近の小論文課題文に大衆社会論が出題されていました。この問題について生徒たちとのディスカッションを通して“『誰もが持つ画一的な性質や受動性があらわれた社会』『保身に専念する人々が個としての自立性を否定して、「全体」にとけ込もうとする傾向』『経済的利害を中心に画一的に振る舞うようになった人々の思考が停止し、自分にとって利益を約束してくれそうな集団に、機械的に従う』『自らの理性で善い行いをするということがなかった人』になってしまったのが大衆社会”―なのではないかというところにたどり着きました。自分の頭で考える高校生の前で、猛烈サラリーマン世代は冷や汗が出つつも頼もしく思えました。

消費社会は成熟し、「何が何でも売ればよい」と考えている人を見抜けない消費者はもういませんし、今時の高校生は、客観的に見ることと自分の頭で考えることを上手に促されています。ですから、対等で理知的なコミュニケーションが成立します。

私が社会に出た頃、営業職は “普通の人”がカリスマのやり方に惑わされて、盲目的で、持てる力を発揮できずに半年で退職するのも当たり前でした。企業は、それを見越して大量採用していました。若い人が身の丈に合った相手に対して誠意のあるやり方で実践すれば、通じたはずです。トップセールスマンの属人的過ぎる技を全員が真似ようとするのでなく、次第に経験を積み、お客様が欲する情報を提供し、お客様の良き相談相手になることに集中せよと教えれば、成果を出せる人がたくさんいたと思います。一部のトップセールスマンは“個人商店”でよかったのです。“外向的で、酒が強くてゴルフが大好きで、他人と付き合うことが得意といった「優秀な体育会系出身」”を振る舞う必要などなかったのではないでしょうか。寡黙で酒・ゴルフが苦手でも、優秀な人材はいくらでもいます。営業職に限らず求められる能力の本質は、そんなことばかりではないはずです。

 

かくいう私の来し方は、今の高校生の前では「恥ずかしくて眼も当てられない」ような思い込み一直線の場面の方が圧倒的に多かったというのが正直なところです。「思考停止はよくない」「逃げてはいけない」といつも自分を追い詰めていましが、本当の頭の中は、常に理性と欲望がせめぎあって、どちらかがちょっとだけ勝ったり負けたりしていました。しかし、それが生身の人間の生きるということではないかとその度に自分をなだめていたのです。「なぜ今、大衆社会論」と訝しく思って読み始めたのですが、鋭く抉られた理論でした。