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目を見て話す‐根の深い木 82 ‐

人の話を聞くときは、相手の目を見るのが大事だと教える人がいます。話すときもちゃんと相手の目を見て話すようにと教えられます。

ある議論の場で私が話している間、一度も目を離さず、ずっと見つめている人がいました。あまりいい気分ではありませんでした。むしろ、嫌でした。「相手の目を見ないコミュニケーションは、本当の意味のコミュニケーションではない」とでも教えられたのでしょうか。私は、そうは思いません。
スピーチや講演などのように自身が一方的に話すような場合は、たとえ相手が何人でも、できる限り一人ひとりの目を見ながら話すのが良いのはもちろんです。あるいは、教師が生徒の目を見ながら授業するのは、生徒の理解度や集中力がよくわかりますから、これも当然大切です。授業中、しっかりと教師の目を見て話を聞いている生徒は授業に集中していて、理解度も高いはずです。しかし、大人同士の会話は、そういうこととは違います。場合によっては、不快です。コミュニケーションというのはそういうものです。適度に目線を外すタイミングがわかっていない人が「相手の目を見る」の一点張りなのです。こういう説明不十分な、指導や助言にも
動機付けにもならないことを言う人がいます。程度や場合を考えない人です。「いつも“頑張れ”と言われる」とげんなりしている生徒がいました。「テストの後くらい“頑張ったね”って言って欲しかった」と嘆いていました。また、「“普段通りにやれ”と言われましたが、できませんでした」としょげかえっている生徒もいました。12歳で受験する中学入試などは、普段通りにできなくても、それが普通です。普段の自分ではなく本番の自分に変えて、やらなければならないことだってあったのです。

また、中学受験生を都心のホテルに集めて泊まり込みで特訓を行なったら「子どもは外で遊ばせるべきだ」「監禁状態で勉強させている」と言われたことがあります。よく遊び、よく学べちゃんと下の句があります。中学受験生の保護者は受験生である子どもと本気で伴走しています。少なくとも23年と苦楽を共にしています。一喜一憂するなと言われても、何度でもします。このケースでは教師も同じです。学齢期の子どもを持つ家庭や受験生の本心を知らずに外野から上の句だけを正論として言われても、ヤジにしか聞こえません。教師も家族も本気で子どもを応援しているのです。こういう人はプロ野球を観に行っても「ちんたらやってんじゃねぇ」と怒鳴っていらっしゃるのでしょうか。「あなたより、ずっと命がけで取り組んで、やってきました」と選手は、言い返したいはずです。

失敗してもくよくよするなと言う慰めがあります。しかし、失敗した人は、それで終われないではありませんか。失敗したら分析しなければいけませんし、落ち込むことも当然ではありませんか。

相手のことを心から考えていたら、例外や時と場合を考慮してから発言するべきです。

普通の人は気分というものがあって潮の満ち干きのようにテンションが上がったり下がったりもします。まず、そういう状態を理解していたら紋切り型には言えないことがあると思います。“対人リテラシー”と言うのは、そういうものではないでしょうか。その人が信用するに値するかどうかを見極める時には、空々しい美辞麗句ではなく、自分の言葉で説いてくれる人を選びたいです。