· 

情報を伝える人‐根の深い木 83 ‐

一つのテーマを議論している時、自分の考えとは正反対の意見が出ることも当然、あります。また、気が合うからといって、仲の良い友人が自分と同じ意見とは限りません。

反対意見を言えばこれまでの関係に差し障りが出るのではと心配する人がいるかもしれません。しかし、議論してみて、自分の意見の論理性が弱いと気づいたなら、相手から学べる良い機会です。議論の場にいる仲間は、自分の考えを洗練させてくれる人です。

議論というのは、落としどころを考える必要も同調する必要もありませんし、敵と味方のような関係性でもありません。意見が違う理由は二人が持っている経験や情報の差にあることも多いはずです。そして、人には自分の考えのもとになった情報というものがあります。もとにするのですから、その情報の真偽(自分が知らないことについての情報の真偽を判定するということはできませんが)や、その情報源の信頼性は、追求しなくてはなりません。インターネット上の情報に質の差がありうるということを知らない人はいないでしょう。確かにインターネットはかつての新聞の代替物になり得てはいますが、書かれていることの信頼度はずいぶん違います。専門家も知らないような知識にすぐにアクセスできるというのはすばらしいことですが、体系的な学習をしたことがない人が、キーボードを叩いただけで、簡単に入手した情報を受け売りしたり、自分の考えに取り入れて発言したりする際には、情報源についての「情報」が必要です。

ジャンルを超えた膨大な情報に無償でアクセスできるインターネットは、学習の要領と可能性までをも大きく拡げました。しかし、全員が同じような情報へのアクセス能力を分配されたあと、今度はこの情報検索能力をどう使うか、そのセンスが問われることになりました。

このことは、たとえばどういう人間が信用できるかできないかの判定のようなものかもしれません。情報社会の個人としての重要なセンスです。

 

人は、騙されたり、裏切られたり、あるいは救われたり、支えられたりというさまざまな人生経験の積み重ねを経て、その人を信用できるかできないかがわかるようになります。「人を見る眼」という言葉がありますが、エビデンスがないときに、その人がどんな人かを見極める能力が必要だということです。情報の真偽がわかるというのは「自分が知らないことについての情報の確からしさがわかる」ということです。その情報がもたらされた経路や伝え手のマナーを見るということです。情報そのものではなく、それをもたらす人を見るということです。それを伝える人のマナー自体が情報です。