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学校の勉強‐根の深い木 100‐

 塾はあくまでも学校教育を補完するという立場であると自覚しています。塾では、予習スタイルであろうが復習スタイルであろうが、学校での授業進度が基準ですし、教科書を無視して指導することもありません。難関校に進学しようとする子どもの多くが塾に通っていますが、中学受験を除けば、塾に通わずに合格する子どももいます。学校が 必要なことをやっていないということではありません。

ところで、「学校では社会に出てから必要な知識を教えてくれない」という内容のことをしきりにいう人もいますが、学校はそういうところではありません。

学校は役に立つ知識や学問を教えてくれるところだと誤解している人が、こういうことを言います。「中学の数学が実社会でどれほど役立つのか」、「日常生活では全く使わない三角関数などなぜ勉強しなければならないのか」、と問う生徒はいつの時代もいますし、「問題を解く楽しさ」などで説得しようとする教師もまた、いつの時代もいます。この場合、明らかに生徒の主張に分があるようにみえます。

ここには、大きな落とし穴があります。学校は人類が蓄積してきた知的財産を継承する場です。役に立つとか立たないとかを目的にしたり、世の中に出てお金を稼ぐためのノウハウを教えたりするのは、学校本来の役割ではありません。

例えば、天才的な数学者によって積み上げられてきた膨大な体系を、子どもたちの成長の度合いに合わせて要領よく伝えるのが、数学の授業の役割です。自らの理解力不足を棚に上げて、実生活で使わないから勉強しなくていいなどという子どもがいたなら、その浅はかな数学観を正すのが、教育の本筋なのです。問題を解く楽しさは数学の大きな魅力であるのは間違いありませんが、学校で数学を教える本質的な理由ではないでしょう。

学校を実用的な知識の教習所と捉えるのではなく、その時代に欠かせない共通の知識ベースを得られる場と捉えれば、役に立たない学問も深い意味を持ちます。数学ばかりでなく、歴史も国語も科学も同じです。先達や研究者が議論と検討を加えて到達した一つの結論は、人類の、あるいは世界中の、そして我が国の資産として尊重されるべきものです。あらゆる学問が、そうして旧説を乗り越えて発展してきました。

さて、冒頭、数学を引き合いに出しましたが、数学にこだわって言えば、アメリカでは大学進学の際に、SAT Reasoning Testという英語と数学の二科目があり、それに加えて選択制のSAT Subject Testsを受けます。日本とは違い文系だろうが数学の試験を受けます。論理的思考というのは、生きてゆくうえで非常に大切な能力です。「こうなるからこうなり、こうなるのはおかしい」という思考です。日本の中学校で習う「十分条件」と「必要条件」のような考え方です。もちろん、数学はあくまでも論理思考のトレーニングのようなもので、その上に様々な教養が加わって人は、少しずつ判断力を身につけていきます。

学校の勉強が無駄だから、行かないというのは、あまりにも目先の実利や損得にとらわれた考え方です。「役に立たない学問」という表現自体が、的外れな概念です。

子どもが「勉強をして何の役に立つのか」と問うのなら、まだ大丈夫なのでしょうが、いい大人が、同じことを言うなら、国の将来は限りなく暗いと思います。学校は素晴らしいところです。