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歴史学習再び‐根の深い木 102‐

今年、日本のNHK大河ドラマでは、“麒麟が来る”(明智光秀の視点から戦国時代の日本を描いた作品)が放映されています。どのような歴史小説も歴史映画も、誰を軸にして描くかで全く異なる世界を見せてくれるところが興味深いです。

歴史小説は、真実と主観的な解釈との間にある部分は、作者の思いのままかもしれませんし、学校に通っている間には教えてもらえません。ですから、歴史に関する書籍を読む度に、解釈や事実の側面の多さには大きな驚きがあります。ある時代の英雄も視点次第では、英雄でなくなってしまったり、どの時代に教えられたかによっては、まるで話題性がなかったりするかもしれません。まして、子どもの頃に、私たちの国は、ある国にひどいことをされたと学校で教え込まれたら、深く学んだ人から教えてもらわない限り、大人になっても簡単には考え方を変えられないでしょう。また、日本人の大半は中国や韓国やアメリカの教科書を見たことがないでしょうし、教科書そのものには関心もないでしょう。おそらく、どこの国の国民も他の国の教科書に関心を払うことはないでしょう。国際理解という観点においては、複数の国で学校に通った経験のある人には、到底敵わないのではないでしょうか。

「過去に不幸な歴史があった」というのは、日中韓関係を語る時によく聞くフレーズですが、近隣諸国と不幸な歴史を持つ国は、他にもたくさんあります。

「歴史というのは過去の出来事であり、遠い昔に何があったかを知ることだ」と思っている生徒もたくさんいるでしょう。中学、高校に歴史という教科があっても、西暦何年に何が起こったのかとかターミノロジーや年号を暗記するものだと思い続けている人もいます。「それを覚えて何になるの?」という勘違いが、学校で歴史教育を魅力のないものにしてしまう一因ではないかと思います。
歴史を学ぶ時、過去に何があったかを単に覚えるのではなくて、その出来事、時代を生きた人間を想像し、そのことが私たちにとって何なのかを考えたら、どんどん知りたくなります。過去の出来事を読み直し、世界を再構成していく想像力が歴史という物語の尊さを教えてくれるのだと思います。「過去にこんなことがありました」という話だけではありません。決まりきったことを、決まりきったように誦(そらん)じていくのでは、何も発見がありません。歴史小説も歴史映画も歴史は、書き換えられ、観点、視点次第で自分の頭の中で何度も創りなおされて行きます。そして、創り直すたびに人間に対する関心が深まり続ける気がします。
人は、どういう時にどういうふうに考えるものなのか、考えるべきなのかを学び続けている気がします。