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スポーツと体育‐根の深い木 104‐

 

 体育とスポーツは、それぞれ目的が違います。体育は、体験です。実践して体得することであり、教育の基本である三育(知育、徳育、体育)の一つとして大変重要なものです。ここでは詳しく述べませんが三育という捉え方は「スペンサーの教育論」として明治時代から伝承され、特に体育は、この論を導入した時から重んじられているからこそ、小学校から大学まで指導されています(・・と私は教えられたのであってスペンサーの原著を読んだわけではありませんが)。

体育の教育目的は、スポーツと違って勝敗とは別の次元にあります。スポーツは、たいていの場合、勝敗を目的にします。勝敗への拘泥については否定的な意見もありますが、勝利を目的にするからこそ、チームワーク、責任感、忍耐力、友情を経験により体得することができますし、勝って泣き、負けて泣く姿は見る人の感動を呼びます。また、スポーツにおいてはプロとアマでは、勝敗の意義が異なります。プロスポーツの目的は、営利ですから必然的に勝敗にこだわります。勝敗を度外視して楽しむことはできても、プレイヤーは、勝つことを目的にするからこそ切磋琢磨するように思います。アマチュアは、勝敗よりも名誉を重んじるのではないでしょうか。アマチュア競技では、観戦者が何と解釈しようが勝敗の意義は、選手達の成長のためにあるのでしょう。

子どもたちは小中学校の体育の授業で、文字通り「体験」し、興味・関心を持った運動をさらに部活動で深く「体験」することができます。(運動)部活動での成果を体育の授業で活かすこともできます。さらに、(運動)部活動は、自主的に自分の好きなスポーツに参加することにより、将来的にそれを楽しむことができます。ここから、体育がスポーツに繋がっていくのでしょうか。

さて、スポーツ教育の大きな成果にスポーツマンシップがあります。誇り高さや公正を求める精神は、気高さを感じさせます。まるで、人間はいかに生きるべきか、どうあるべきか、何が公正であるかを学ぶことのように思われます。スポーツには社会性としても大きな成果物があります。それは、決断力です。決断力は、社会的な責任を果たすために、不可欠な要素です。知育で身につけられるものではありません。肉体と精神の訓練によって磨かれていくものです。決断力は、決断することでしか磨かれません。団体競技では、決断を連続的に迫られます。プレイヤーは、局面ごとに可能な限り短時間で決断を下さなくてはなりません。スポーツは、意思決定を効率よく身につけさせてくれます。一流の試合をTV観戦した時、プレイヤーの決断に至るプロセスの解説を聞くと面白味は倍増し、素人見の浅はかさが吹き飛ぶことがあります。

 

スポーツを教育として捉えれば、名誉、忍耐、自制心、勇気、平等、キャプテンシー、技能(特に、厳しい修練の賜物としての)などたくさんの成果がありますし、社会性の育成にも大きく寄与します。

プレイヤーは、一度競技が始まったら、長考することができません。プレーに専念するしかありませんから、準備がものを言います。そして勝てるチーム、強いチームを作るためには、強いリーダーが必要で、リーダーシップを発揮することが欠かせません。また、メンバー全員が練習や試合を通じてチーム・組織のあり方を学んでいきます。スポーツには、プレッシャーとの戦いという競技自体の鍛錬とは別の要素もあります。スポーツにはその部分で、たくさんの名言があります。

私は、「練習は本番のように、本番は練習のように」という言葉が好きです。

私は、プレッシャーに弱いからです。