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道徳教科化‐根の深い木 108‐

 日本では2018年から小学校で、2019年から中学校で、道徳性を養うことを目的に「道徳」が教科化されました(教科化されるということは評価もされるということです)。仮に授業できちんと学んだという記憶がなくても、また入試には関係なくても、道徳教育の大切さは誰もが認識していますし、親は子に「嘘をついていけません」「人には親切にしなさい」「食べ物を粗末にしてはいけません」など、普遍的な善悪については、日常の機会ごとに教えます。

ところで、こうした一方向の正解ではなく、例えばフードロスやCO2排出削減など、経済的な側面を含めて課題とした時、板挟みが避けられない「正解のない」問題に対する考え方を学ぶにはどうしたら良いのでしょうか。高校では2022年度から「公共」という科目が新設されます。選挙権が18歳から与えられて高校生が投票に行くのですから「公共」という概念は重要です。マナーやルールを守ることや善悪だけでなく、本音と現実のジレンマの中で解決していかなければならないことに直面した時、例えば貧困問題であれば、「助ける・助けられる」「自己責任・みんなで支え合うべき」など、共感性も必要ですし基盤としての知識も必要です。さらに具体的に、全体でどのくらいの人が該当し、どれほどの税金が使われているのか、医療費や学費が無料という国ではどのように税金が使われているのかを知らなければ深い議論ができません。短絡的に他の国との比較では済まされないことも考えていかなければなりません。格差問題も取り組み始めると、社会福祉への支出に対する考えも立場次第で揺らいでしまうかもしれませんが、そうした経験も必要でしょう。

実社会の種々の課題に対応していくためには、道徳科で育まれた力を様々な場面で活用することになると思います。自然環境、資源の有限性、国際理解教育、憲法の理解、日本の伝統・・小論文の授業でも議論に際して必要な知識はたくさんあります。それらの知識を用いて、さらに道徳と現実の狭間で、生徒たちは、時に口角泡を飛ばし、現代的な問題に取り組みます。グローバル化の中で、他の国の歴史や文化を理解し多様性を理解し、ルールを守り、競い合っていく力を身につけるには避けられない命題があります。議論では「そんな綺麗事言ったって解決にならない」と一方が気色ばむこともありました。道徳観、人間観が現代的な問題の間で交錯します。批判も共感も思いやりも、道徳教育の延長線上にあると感じる瞬間です。日常生活は、各教科における学習と離れては存在していないということを実感します。生徒たちにとっても感性が活かされる時です。

ところで、PISA調査上位常連国のフィンランドでは、日本の道徳にあたる科目が「人生観の知識」と呼ばれているものだそうです。この「人生観の知識」の教科書には、どんなことが書かれているのでしょう。フィンランドの教育は、日本でも注目されています。フィンランドが何かを行なっているからと言って必ずしもそれが優れていたり有益だったりするとは限りませんが、気になります。

トロントでは、食料品店でも酒屋さんでもディスカウントストアでも球場でも銀行でも皆、友好的で礼儀正しく、私は嫌な思いをしたことはあまりありません。それどころか、思い出に残るようなチャーミングな対応をいろいろなお店で体験しました。こういう時、私は仕事柄というか職業病というか、誰がどんな風に研修や教育を施していらっしゃるのだろうと考えたりします。文化的な環境が道徳に影響を及ぼしているのでしょうか。その逆に道徳が環境に影響を及ぼしているのでしょうか。道徳の定義は、抽象的だったり、曖昧だったりするのではなく、幅が広いようです。